
更新日:2010年4月5日


堀尾吉晴は、天文12年(1543)、尾張国丹羽郡御供所村の土豪・堀尾泰晴の長男として生まれました。幼名を仁王丸、長じて小太郎と称し、ついで茂助と改めました。16歳の時、戦で敵の首を討ち捕り、人々はその豪勇に驚いたといいます。早くから豊臣秀吉に従って長篠の戦い(1575)、備中高松城攻撃(1578)に出陣、本能寺の変(1582)後は山崎の戦に参加し、天王山を占拠して明智光秀を敗走させました。ついで賤ケ岳の戦い(1583)、小牧・長久手の戦い(1584)に参加。天正13年(1585)近江佐和山(滋賀県)4万石を与えられ、さらに、同18年小田原の陣に功をたて浜松(静岡県)12万石の城主となりました。また、秀吉の信任も厚く、五大老と五奉行の間を調整する三中老の一人に任ぜられています。
秀吉没後は次第に徳川家康に傾き、慶長5年ごろには完全に徳川方となりましたが、三河国池鯉鮒(愛知県知立市)での刃傷事件で重傷を負い、関ケ原の戦い(1600)には参加できず、その子忠氏が出陣しています。戦後、功により忠氏は出雲隠岐(島根県)24万石を与えられ、同年11月尼子氏の居城のあった富田城(島根県広瀬町)に入りました。吉晴は先の事件で受けた傷の療養.を埋由に引退を願い出で家督を忠氏に譲りましたが、忠氏は間もなく早世し、孫の忠晴は幼少のため吉晴が国政を執りました。吉晴は、忠氏の遺志を継ぎ同12年(1607)松江城築城に着手、5年の歳月を費やした築城工事の完成を目前にして、同16年(1611)6月17日、69歳でなくなりました。
『新修島根県史』史料篇の『堀尾家記録』によれば、吉晴の出身地は「尾張国丹羽郡御供所村」とあります。そして、江戸時代の寛文年12年(1662)に尾張藩によって書かれた「寛文村々覚書」によれば、御供所村の項に「古城跡一ヶ所。先年、堀尾帯刀居城」とあり、昔から、現在の八剱社境内が、その地と伝わっています。
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